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3.11からこれまでに撮影した写真を少しずつ足していきます。
写真をクリックすると、拡大写真が開きます。
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22時過ぎ。モンベル仙台店へ帰着すると、モンベルの会長である辰野勇さんが出迎えてくれた。
辰野さんとは、四国を流れる吉野川を学び舎として活動している『川の学校』で度々お会いしていた。
子どもたちと川で遊んでいると、いつも突然現れるのだ。
会長という立場にいながら、そのフットワークの軽さにいつも驚き、尊敬している人物。
この日、辰野さんの他にも大阪本社から数名の社員、「NPO法人日本エコツーリズムセンター」から代表理事の広瀬敏通さんとスタッフ、大阪で建設業をしているYさんたちが仲間を連れてやってきていた。
日付を跨いでの打ち合わせ後、アパホテル1402室に帰宅。





バンに積んだ物資を配り終え、活動終了。
日没後の沿岸部を通行するのは危険と判断し、一関方面に車を走らせると、営業中の自販機を見つけた。
気仙沼市中心部からわずか10km。
まぶしい光を放つ自販機が不思議と愛おしい存在に思え、その場で温かい缶コーヒーを飲み干したことを覚えている。
カーラジオのチューニングをAMのNHKから地元FM局へかえると、DJが気を使いながら選曲した音楽が車内に流れた。
久しぶりに聞いた音楽が疲労した気持ちがほぐし、いろいろな思いが胸に溢れた。
音楽って、やっぱりすごい。





鹿折唐桑駅舎跡地から望む町は黒く焦げ、漁船や車、崩れた家屋が幾十にも折り重なっていた。





避難所を探しながら気仙沼市内まで北上。
地元の方に教えられた細い山道を越えると、目を覆いたくなるような光景が広がっていた。





高台にある気仙沼市立階上中学校の体育館は避難者で一杯だった。
当時、対応してくれた先生から、様々な事情から避難所へ来られない方の存在を聞いた。
津波被災を免れた家に暮らすお年寄りたちのなかには、避難所へ来ることを遠慮し、家に引きこもっている方も少ないという。
周辺は電気や水道が止まり、食料や燃料が手に入り難い状況。
そのような状況に対応するため、在宅被災者のための支援サテライトをこれから設けたいとのことだった。
「そのためにテントや暖房器具などが欲しい」
ニーズははっきり求められたほうが対応しやすい。
次に来る際、用意できる物は持参すると伝え、学校を後にした。





仙台宮城ICから東北道に乗り、三陸道を経由し、登米東和ICから気仙沼市本吉に向かった。
本吉からは海沿いに北上。
地図を見ながら学校を探し、高台に寺や公民館などを見かけるたびに立ち寄った。
津波は家屋だけでなく橋脚もなぎ倒し、国道45号は所々で崩れ、緊急的な盛り土でかろうじて繋がっている状態だった。
海岸沿いは瓦礫が途切れることはなく、あちこちに行方不明者を捜索する消防士の姿があった。





10トントラックで届けられた物資を降ろした後、モンベルの今井さんと被災地へ向かった。
この日は3班に別れ、1班は石卷市内の孤立した避難所、もう2班は気仙沼市本吉を起点に南北へ別れ、物資を届けながら避難所探しを行うことになった。
途中立ち寄ったコンビニでは、ほとんどの商品が売り切れていた。
食べ物だけでなくカイロや電池などの生活用品も棚から消え、売れ残っているものは冷たいビールのみといった有り様。
店員に尋ねると、入荷の見通しは全くわからないとのことだった。
津波被災地ではなく電気が復旧した地域であっても、震災の影響は大きく、物不足は深刻といえた。





3月18日早朝、支援物資を満載した10トントラックが「モンベル仙台店」に到着。
モンベルは1995年に発生した阪神・淡路大震災以来となる支援活動をいち早く開始。
社内外に『アウトドア義援隊』の立ち上げを宣言するとともに、国内外のアウトドアメーカーに支援物資提供を呼びかけていた。
この日届けられた物資には、「新富士バーナー」のガスストーブやガス缶のほか、衣服メーカから提供された靴下や防寒着、飲料水やレトルト食料品、一般ユーザーの方より送られてきたテントや寝袋があった。






トラックに積んだ物資を配り終えて仙台市内へ戻る途中、1台の素敵なトラックと出会った。
支援物資を届けにやってきたトラックであることは、ボディのあちこちに記された希望のメッセージですぐにわかった。
「小さな事からしか私はできないけどみんな笑顔になる様に頑張ります!だから頑張って生きて下さい」
外は冷たい雪が降っていたけれど、そのトラックは見る人の気持ちをあたためる力を持っていた。





当時、石卷市内ですれ違う車は緊急車両や支援のためにやってきた車両がほとんどで、自家用車の姿はあまり見かけなかったと記憶する。
多くの人たちが徒歩や自転車で移動していた。
誰もが泥に汚れた服をまとい、黙々と言葉少なく歩いていた。
電気はなく、携帯も繋がらず、燃料も足りてはいなかった。
そして何より情報も十分に行き届いてはいなかった。
この日、ぼくが出会った人々はそんな状況のなかで生きていて、途方と一緒に暮らしていた。





石卷市立鹿妻小学校に到着。
寝袋や防寒着、フリース生地ロールなどを渡すのと同時に、今後必要となる物資の聞き取りも行った。
担当者によると避難者が許容人数を超え、物不足は深刻な状況とのことだった。
取材をしたい思いは強かったがトラックにはまだ物資が残っており、いまはひとりでも多くの方に物資を渡すことが先決だと言い聞かせた。
荷物を降ろし終えると、担当者に教えてもらった山間にある公民館へ向かった。





旧北上川を渡って渡波地区へ向かった。
津波被災地域に入ると、まるで町全体が巨大な迷路になったかのように、彼方此方で倒壊した家屋や車などが道をふさいでいた。
地図上では目指す学校が近いのに、なかなか辿り着けないもどかしさ。
行き詰まるたびに通りすがりの方へ道を尋ね、迂回路を探して前へ進んだ。
余震も多く、地面が揺れるたびに周囲をぐるりと見渡し、高所に引っかかっている車などに注意を払った。
いつなにが起きてもおかしくはないと、嫌でも思わせる状況だった。





石巻市中心部に入ると、信号は消え、まるで時間が止まっているような静寂がひろがっていた。
街全体が喪に服したように静まり、濡れていた。
そのなかを無言で歩く人たちの姿に"生"を感じたことを今でも覚えている。





2トントラックに寝袋・防寒衣類・靴下・フリース生地ロールなどを積み込み、モンベルの佐藤・今井両氏と石巻方面へ向けて出発した。
トラックは緊急車両登録を済ましてあったので、一般車が通行制限されていた高速道路を使った。
一般道は燃料を求めるためのガソリンスタンド渋滞が各所で発生していた。
仙台宮城ICから三陸道へ入り、石卷港ICから東松島市立西高校を目指した。
事前情報はなにひとつ持っていなかったが、学校は避難所になっている可能性が高く、地図にある学校は時間が許す限り立ち寄ってみようと車内で話し合っていった。
最初に訪ねた高校の体育館は安置所として静まりかえっていた。
それでも教室に避難している方も多く、寝袋や防寒着などを慌ただしく渡し、次の学校へ向かった。
長話をする余裕はなかった。





3月17日早朝。
宮城県栗原市からやってきた「くりこま高原自然学校」代表の佐々木氏とスタッフの塚原氏を交え、物資配布のミーティングを行った。
佐々木氏は2008年に発生した"岩手・宮城内陸地震"で自身も大きな被害を受けた経験から、初動支援について貴重なアドバイスをしてくれた。
ぼくらの役目は、一刻も早く物資を必要とする方へ渡すこと。
しかし当時はそれら人たちが何処にいるのかさえわからなかった。
圧倒的に情報が不足していたのだ。
当時、某行政機関から各市町村の要望要請リストを入手していた。
エクセルでつくられたリストを見ると、情報が集まりやすい立場にあった行政であっても、その作業は困難を極めたことがわかる。
女川町からの支援要請には「3/14AM9:19、女川町立体育館、1000人以上、体育館へはヘリでしか行けない」「第一保育所青少年センター(車で可能)、毛布要請5000」と書かれているのみ。
他の自治体からの支援内容も、内容に乏しく具体性にかけた。
現地に足を運び、探しながら届けるしかない状況だった。
いまになって振りかえると、メディアと協力してそれら情報を効率よく集めるアイデアやもっと効果的な方法が思いつくが、あの頃は人数も少なく、やれることは限られていた。
被災地域の現状を知ってしまった者の責任として、この日から滞在目的を被災地取材から支援活動に移し、とことん付き合う覚悟を決めた。






日中は陳列棚を移動させ、店舗内に広い空間を設ける作業を行った。
夜、石川県羽咋市にあるモンベル流通センターから支援物資を満載した2トン箱トラックが到着。
日本海沿いを移動し、吹雪のなか山形経緯で走ってきたという。
物資の内容は、防寒着や雨具、毛布や寝袋がメインで、食料品が詰まった段ボール箱やオシメなどの幼児用品もあった。
モンベルはアウトドアユーザーだけでなく被災地域外の方へ、救援物資を受け付けるとアナウンス。
一般からの物資受付を辞退した行政が少なくなかったので、モンベルによる受け入れ表明はメールやツイッター等でひろく拡散されていた。
善意の気持ちを無駄にしないためにも、今後続々とやってくるだろう物資をどう届けていくか。
目の前に積まれた段ボールが、ぼくらの現実だった。





3月16日。
仙台市内は明け方から降り出した雪が本格的な雪へとかわっていった。
バイクで移動するのは危険と判断し、ホテルから歩いてモンベル仙台店へ向かった。
モンベル仙台店の斜め前にあるダイエーには、開店前から商品を買い求める人たちの列ができていた。
ダイエーだけでなく、いくつかの店舗が売場を限定し、入場制限を行いながら営業していた。
金額に上限を決めて、食料品や生活用品を販売する店舗も少なくなかった。
店舗前の国道4号は、緊急車両がサイレンを鳴らしながら頻繁に走り抜け、一見すると日常に見える街中であっても、震災の非日常とは無関係ではなかった。






14日は仙台駅に近いアパホテルのベットで眠りについた。
営業停止をしていたホテルも多く、仙台市内を走りまわった後のチェックイン。
やっと潜り込めたと安堵したことをいまでも覚えている。
電気は復旧していたが暖房とお湯は使えず、水も貴重だと念を押され、1泊2500円で宿を得ることができた。
野営道具を持っていたが、情報不足でいることが一番の不安だったので、電気とテレビ、インターネットに繋がるところに泊まりたかったのだ。
この日からしばらく同ホテルに連泊することになるが、状況を反映し、シーツやタオル交換はサービス除外だった。
チェックイン後、ツイッターやメール経由でアウトドアメーカーであるmont-bell(以下、モンベルと表記)が現地で震災支援活動を始めることを知った。
自分もなにがしらの情報を発信できるかもしれないと思い、翌15日にホテルから近い「モンベル仙台店」へ向かった。
仙台店は閉店していたが、ブルーシートで店舗ガラスを覆っているふたりと出会った。
大阪本社広報部の佐藤さんと、東京営業部の今井さんだった。
ふたりは13日にそれぞれ大阪と東京を出発。
自分たちの食料の他、急を要する救援物資を持ってきていた。
支援活動に動いている友人に連絡をとり、佐藤さんと今井さんにぼくが知っている状況を伝えた。
バンの荷台に大阪府堺市にあるモンベル倉庫から運ばれてきたフリース生地ロールが積まれていた。
午後、着の身着のままで閖上地区から避難している人たちが名取駅近くの名取第一中学校にいるとの情報を得たので、モンベル社員のふたりと中学校へ向かった。
ロール生地を渡す際は、生地を裁断できる道具の有無を確認し、生地の使用方法や分配サイズは代表者に任せことを伝えた。
外は冷たい雨が降り、この日から凍えるような寒さが続いた。






福島県新地町で日没を迎えた。
この日は各地で気温が上がり、福島県北部の沿岸部も汗ばむほどの陽気だった。
強い南風が吹くたびに、周囲の山からは狼煙のような杉花粉が舞い上がり、花粉症のために取材中も絶えず鼻水が流れているような状態だった。
3月14日11時01分、福島第一原発3号機が水素爆発。
後日眺めた映像では、一度炎が出た後、黒煙がキノコ雲のように空へ膨らんでいく様子がはっきりと映っていた。
記録映画に出てくるような核爆発のような雲のかたち。
しかし、いまでは3号機爆発の事実をいつどこで知ったのか覚えていない。
自衛隊員から教えてもらったのか、地元の方との会話だったのか…。
もしかしたら夜遅くにチェックインしたホテルのテレビで知ったのかもしれない。
胸ポケットに入れていたはずの携帯ラジオを紛失し、情報は出会う人から聞くのがすべてだった。
広範囲で停電していた沿岸部では携帯も使いものにならず、誰もが情報弱者だった。
空へと放出された放射性物質は風に運ばれ、ぼくらに降り注いだのかもしれない。
その可能性を考えていなかったわけではないが、あのとき無味無臭の放射能に気を配る余裕は正直なかった。
目のまえにひろがる惨事を理解するだけで目一杯だったのだ。





常磐線の新地駅へ向かうと、折れ曲がった車両が駅から離れた場所に転がっていた。
4両あった列車は、どの車両も元の姿を留めてはいなかった。
駅舎は跡形もなく流失し、辛うじて残っていた陸橋とホームで駅だとわかった。
駅から海岸まではおよそ600m。
そのあいだに視界を遮るものは、なにひとつなかった。
津波にのみ込まれた車両は地震発生時、新地駅に停車していたという。
偶然乗り合わせたふたりの地元警官が機転を利かせ、約40名の乗客を高台へ誘導。
間一髪のところで津波から逃れ、誰ひとり犠牲になることはなかったと、あとで知った。





山元町高瀬付近で、膨らんだポリ袋を抱えた男性と出会った。
津波に襲われた自宅から家族総出で荷物を運び出しているという。
男性の自宅は2階を残し、1階部分が潰れていた。
家のなかを見せてもらうと、2階にも津波の爪痕が刻まれていた。
「こんなにひどい状態だよ。この惨状をしっかり見ていってくれ」
破れそうなほど膨らんだポリ袋には洋服や毛布などが詰めこまれ、これが手元に残ったすべてだと教えてくれた。




亘理町から国道6号を南下。
住宅地や田畑は瓦礫に覆われ、原型を留めていない車が数え切れないほど転がり、全国から派遣された自衛隊員や消防士、そして地元の消防団員たちが泥だらけになりながら行方不明者の捜索を続けていた。
余震による揺れは途切れず、たびたび津波注意報が発令された。
そのたびに捜索活動は中断となり、高台へ避難する人の動きがあった。





山形自動車道の笹谷ICから先は通行止めだった。
国道286号に降りてからは県道を使い、国道6号を目指した。
川崎町、村田町、柴田町を経て、太平洋に面した亘理町に到着。
高台から望む町は全体が海に浮かんでいるようにも見えた。
沿岸部で見える範囲はすべて津波に襲われていた。
そのひろがりに言葉を失った。





国道沿いの信号は至るところで機能を失っていた。
信号の点灯有無が停電の目印となったものの、停電地帯のガソリンスタンドはポンプが動かせずに店を閉じ、自家発電や手動ポンプで営業を続けている店舗は車列が1㌔以上続いている状態だった。
営業中のガソリンスタンドを見つけると、列に並ぶ前に在庫の残量を店員に尋ねた。
多くの店舗が「最後尾まで提供できないかもしれない」と答え、複数の店舗で「電気が復旧した仙台市内ならば燃料が手に入るかもしれない」とアドバイスされた。
在庫がゼロになった店舗にも長蛇の列が延び続けていた。
最後尾に並んだとしても、燃料は手に入らないだろう。
昼過ぎに到着した仙台市内でも同じような状態だった。
車列が街のブロックをぐるりと取り囲み、最後尾は曖昧だった。
順番を巡る争いはあちこちで起きていた。
バイクの燃料計を見ると、残量は1/3。
携行缶の燃料を使えば無給油で帰宅できるが、帰るつもりは全くなかった。
地図を拡げながらしばらく考え、ひとつの可能性に賭けることにした。
関山峠を越え、山形へ向かうことに決めたのだ。
峠付近は雪山だったが、幸運にも圧雪路になっておらず、アスファルトが露出していた。
この日は寒河江市で暮らす友人宅に泊まらせてもらい、翌朝、開店前からガソリンスタンドに並んだ。
そして燃料が満タンになったバイクに跨り、宮城県沿岸部へ向かった。






東北へは車ではなく、250ccのスクーターバイクで向かうつもりでいた。
理由は燃費が良く、小回りが利くためだ。
カメラ機材、MacBook、防水ライト、羽毛寝袋、雨具、タープ、2Lのミネラルウォータを2本、食料はカロリーメイトやナッツ類など登山の行動食みたいなものを4日分、10Lのガソリンが入った携行缶、そして100円ショップで大量に購入した使い捨てライターをバイクに積み込み、13日深夜に都内を出発した。
ライターは寒さに震える人たちにぼくが運べる唯一の支援物資だった。
明確な目的地は決めかねていたが、福島市から国道115線を使って沿岸部へ進もうと思っていた。
白河市に入ると路面に亀裂や段差が現れ、応急処置として真新しいアスファルトが盛られていた。
郡山市を抜けたところで空が明るくなり、福島市で朝を迎えた。
福島市の南側では土砂崩れのために国道4号が通行止めとなり、迂回路の措置がとられていた。
郡山以北からガソリンスタンドはどこも長蛇の列となり、簡単に補給できる状態ではなかった。
携行缶はあくまでも緊急用。
燃料が満タンの状態でなければ沿岸部へ行ってはいけないと自分に言い聞かせ、福島市を通り抜けた後もガソリンを探しながら国道4号線を北上することになった。






3月12日15時36分頃、福島第一原発・1号機で最初の水素爆発が発生。
爆発の瞬間を捉えた映像には、青い空に建屋の数倍規模の煙が突然膨らむ様子がはっきりと映っていた。
東北へ向かう準備をしていた最中での一報だった。
ライブ中継された会見では、記者が最悪な事態を想定した対応を原子力安全保安院に問い詰めるも、保安院は「できるだけ早く情報を収集し、分析したいと思う」と答えるのみで、こちらが知りたい具体的な説明はなにひとつされることがなかった。
「あとで訂正すればいいじゃないか。被害を軽くみているとしか見えない」
ある記者が苛立って保安院へ言い放った言葉が、いまも脳裏に焼き付いている。
政府は水素爆発を受け、18時25分に福島第一原発の避難対象地域をそれまでの半径10kmから20km圏内へと拡大。
20時半過ぎに枝野官房長官の会見が行われた。
「爆発は原子炉のある格納容器内でのものではなく、したがって放射性物質が大量に漏れ出すものではない。ただちに人体、健康に影響はない」
いまではそれが嘘だったとわかるが、当時はこの言葉で東北へ行く決心がついた。






実家から帰宅後、眠ることなく朝を迎えた。
地震による被害は都内も少なからずあり、近所の銭湯は煙突が折れ、屋根が大破。
被害は甚大だったが、怪我人はなし。
ボイラー点検で臨時定休だったのが不幸中の幸いだった。
その後、銭湯は廃業となり、現在はコインパーキングになっている。






2011年3月11日。
この日からのことは生涯忘れることがないだろう。
14時46分、宮城県沖を震源するM9.0の地震が発生し、都内にある自宅も激しい揺れに見舞われた。
東北沿岸部を津波が襲った後、福島第一原発は全電源喪失で制御不能に陥っていた。
東京周辺の主要道路はどこも渋滞し、帰宅難民者が街に溢れたのだ。
携帯は発信者制限のために使い物にならなかった。
独り暮らしをしている母親が心配になり、渋滞を縫ってバイクで向かうと、実家周辺はこれまで見たことのない闇が広がっていた。
それは物心がついてから初めて眺める光景だった。