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宮城県山元町坂元 2011.4.25




宮城県東松島市東名 JR仙石線・東名駅 2011.4.28




宮城県東松島市野蒜 2011.4.28




宮城県東松島市浜市 2011.4.28




六郷小学校近くで泥に埋まったぬいぐるみをみつけた。このぬいぐるみも集積分別された後には"瓦礫"と呼ばれてしまうのだろうか。
宮城県仙台市若林区六郷 2011.4.26




宮城県岩沼市下野郷 航空大学校 2011.4.24




宮城県石巻市針岡 2011.5.5




宮城県石巻市日和が丘 2011.4.28




震災前、久之浜幼稚園には3本の桜の樹があったという。
2本は押し寄せる津波に倒れてしまったが、1本は津波に耐え、翌月きれいな花を咲かせて幼稚園関係者を驚かせた。
人々に希望を与えた桜は被災建物の撤去が進んだ翌年も枯れることなく、小さな花をほころばせていた。
福島県いわき市久之浜 久之浜第一幼稚園 2012.4.29




宮城県南三陸町志津川 2012.5.1




今春、高台から東京電力福島第一原子力発電所を望んだ。
右側から4号機、3号機、2号機、1号機。
大熊町に立地する原子炉建屋のなかでは2号機のみが爆発を免れた。
左端に見える6号機、5号機は双葉町に立地。原発事故の原因究明を目的として国会に設置された『東京電力福島原子力発電所事故調査委員会』の報告書には【結果的に、福島第一原発から放出された全放射能量のうち、2号機原子炉からの放出量がかなり大きな部分を占めており】と記され、後に「帰宅困難区域」となった浪江町津島地区や飯舘村での汚染は、この2号機原子炉からの漏洩が深刻な影響を及ぼした。
福島県大熊町夫沢 2013.4.16




2013年3月末。全域が警戒区域だった富岡町は、放射能の汚染状況に応じて3つの区域へ再編された。
町民の自慢だった桜並木は分断され、大部分を5年以上の長期に渡って居住が制限される「帰宅困難区域」が占めている。
今回の再編で昼間に立ち入りが可能となった区域も、放射線量はけっして低くはない。
福島県富岡町夜の森 2013.4.11




3月11日の地震後、富岡第二中学校の体育館は地域の避難所となり、多くの住民が不安のなか一昼夜過ごした。
震災翌日、富岡町は福島第一原発から10km圏内の避難指示が出たことで、隣接する川内村へ避難することを決定。
当時、政府や東電から富岡町への情報提供はなく、役場職員でさえ"念のための避難"であり、数日で戻れると思っていたという。
多くの住民は十分な説明を受けることなく"着の身着のまま"の状態で避難。
体育館のなかは折り畳み椅子やストーブ、移動ベットなどが片付けられることなく、当時のままで残っている。
福島県富岡町夜の森 富岡第二中学校 2013.4.8




桜が咲くと毎年のように富岡町へでかけ、桜のトンネルを楽しんでいたという家族と夜ノ森で出会った。
現在は自宅がある大熊町からいわき市内の借上げアパートへ避難し、家族5人で暮らしている。
この日は両親(父88才、母89才)に桜を見せるため、 桜の開花にあわせて足を運んだという。
農家でもあるSさん。田畑は荒れ、自宅の庭は猪に掘り返されて散々な状態。
「こんな状況でもきれいな花を咲かすんだね」と、いつまでも桜を愛でていた。
福島県富岡町夜の森 2013.4.8




首都圏へ送電していた町は放射能に汚染され、無人となった。明るい未来のエネルギーは多くの不幸を生み、未来を奪った。
福島県双葉町長塚 2013.4.8




旧警戒区域内は地震によって屋根が破損した家屋が多い。
住民が避難中、行政によってシートと土嚢袋で応急処置がなされたとはいえ、余震が起こるたびに瓦が落下し、野地板が露出している家屋も少なくない。
雨や雪が降るたびに建物が傷み、1階の天井が抜けている家もある。時が経つほど帰還が現実的でなくなっていく。
福島県浪江町権現堂 2013.4.16




二代に渡って酪農を営んできたSさん(65)の牛舎脇で、今春も桜が咲いた。
Sさんは浪江町から二本松市へ避難し、現在は夫婦で借り上げアパート暮らしをしている。
警戒区域解除後は昼間に限って自宅への立ち入りが自由になったが、Sさんは荒れた建物を見るのは辛いからと自宅へあまり帰っていない。
Sさんは原発事故後も自宅に数日間留まり、仲間の酪農家と1台の発電機を使いまわしながら搾乳を続けていた。
搾乳しなければ乳房が張り、乳牛の健康を損なう恐れがあるためだった。搾った乳はその場で廃棄。
2011年3月15日、20~30km圏内に「屋内退避指示」が出されたことを知り、Sさんは避難を決意する。
Sさんの自宅から福島第一原発へは直線で約14km。すでに近所から人の姿は消えていた。
避難の際、飼養していた乳牛は周囲の迷惑になるかもしれないからと、牛舎に繋いだ状態で置いていかざる得なかった。
再びこの地で酪農ができるのなら…と、Sさんは思う。
反面、年齢を考えると放射能の影響以上に、それはとても厳しいことだと、本人が一番自覚している。
福島県浪江町立野 2013.4.16




津波によって壊滅的被害を受けた浪江町請戸地区。県警による初の大規模捜索が行われたのは2011年4月14日のこと。
震災翌日に福島第一原発から半径10km圏内へ避難指示が発令された結果、行方不明者の捜索が1カ月近く放置されてきた。
浪江町は今春、警戒区域の解除に伴って3つの区域に再編されたが、いったい何が変わったというのだろう。
復興は遠く、復旧すらこれからなのだ。
福島県浪江町請戸 2013.4.11




2012年4月16日。南相馬市小高区に設けられていた警戒区域が解除なり、ほぼ1年ぶりに誰でもが自由に立ち入れるようになった。
その数日後、小高神社で桜を眺めながら昼食を食べていた老夫婦と出会った。自宅の片付けが終わり、一服しているという。
男性の年齢は90歳、女性は87歳。現在は仮設住宅に避難中。当時伺った話では一時帰宅で2回、そしてこの日は解除後初めての帰宅。
地震で崩れた屋根は雨漏りし、隙間から侵入したハクビシンが家中を荒らしているため、掃除は途方に暮れる作業だと話していた。
「自宅で死にたい」という切実な老夫婦の願いを聞き、やるせない思いに包まれた。小高区は現在も寝泊まりが禁止されている。
福島県南相馬市小高区 小高神社 2012.4.19




飯舘村内で標高500mを越える長泥は、 周囲より少し遅れて春が訪れる。
昨春。東北取材の帰路に立ち寄ると、路面いっぱいに花弁が散っていた。
花で染まる道路は幻想的であったが、通る車がないことを教えてくれた。
福島県飯舘村長泥 2012.5.6




原発事故後、飯舘村から福島市へ避難しているTさん(43)は自分の牧場を持つという夢を叶えるため、30才になった2000年に飯舘村長泥へ新規入植した酪農家である。
入植後はおよそ6ヘクタールの土地を購入し、50頭ほどの乳牛を飼養。
これまで周囲の酪農家と学びあいながら、放牧にこだわった経営を築いてきた。
しかし2011年の原発事故によって長泥地区を含む飯舘村は放射能に汚染され、牧場を離れざる得なくなった。
「帰宅困難区域」になっている長泥地区への立ち入りは月1回程度に制限され、今後5年以上は帰還できないとされている。
牧草をつくっていた草地には柳が茂り、丹精こめて手入れをしていた庭は猪によって荒らされていた。
現在、共同牧場の場長として働いているTさんは、新しい技術によって「元の場所で酪農ができる日」を諦めてはいない。
しかし一方で「検査で放射性物質が不検出だとしても、消費者は長泥で搾った乳を受け入れるのか」とも思っている。
福島県飯舘村長泥 2013.4.25




宮城県気仙沼市鹿折地区 2013.4.23




宮城県南三陸町志津川 2013.4.22




志津川高校へ続く桜並木で出会ったAさんは、志津川病院屋上へ避難して助かったひとりである。
志津川病院近くにあった自宅は津波にさらわれ、跡形もなく流失。
Aさんは長いあいだ商売をしてきたこともあり、これまでのんびりと桜を眺めることはなかったという。
高校敷地内に建てられた仮設住宅で初めて迎える春。笑顔で「こんなにも桜が美しいと思ったことはない」と教えてくれた。
宮城県南三陸町志津川 2012.5.1




岩手県釜石市唐丹町 2013.4.19




施設の一部が仮復旧した大船渡港で、地元で「イサダ」と呼ばれるアミ漁から帰港した漁船が水揚げを行っていた。
イサダ漁は冬の終わりに始まり、桜が散る頃に終わる。
岩手県大船渡市大船渡 大船渡魚市場 2013.4.23




津波は東松島市指定避難所だった野蒜小学校をのみこみ、体育館に誘導され待機していた多くの住民が還らぬ人となった。
波は体育館のギャラリー通路直下まで押し寄せたという。今春、津波被災した桜が咲くなか、プール撤去作業が行われた。
現在は体育館も撤去され、更地がひろがる。
宮城県東松島市野蒜 野蒜小学校 2013.4.22




野蒜小学校の裏にひろがる丘陵地では重機が山を削り、高台移転地の造成が行われている。区画整理事業の完了予定年は2016年。
宮城県東松島市野蒜 2013.4.22




津波と火事に襲われた石巻市立門脇小学校。幸いにして校舎で犠牲者は出なかったが、壊滅的な被害を受けた門脇地区では大半の住民が住宅を失い、地区外へ移転せざる得ない状態が続いている。
生徒数が減少した門脇小学校の授業は近くの中学校を間借りして行われ、校庭はわずかに残った児童の遊び場になっていた。
宮城県石巻市門脇町 2013.4.17




岩手県釜石市鵜住居 2013.4.23




更地となった陸前高田市気仙町に黄色いハンカチがはためき、鯉のぼりが力強く泳いでいた。
岩手県陸前高田市気仙町 2013.4.23




岩手県 釜石市嬉石町 2013.4.19




津波で92名が犠牲になった赤浜地区。津波被災した旧赤浜小校舎は撤去されたが、校庭に植えられた桜は今春も満開の花を咲かせた。
校庭を含む一帯はかさ上げ対象地のため、桜は年内中に伐採される。そのため地域の方が久しぶりに集まり、別れの花見が催された。
岩手県大槌町赤浜 2013.4.24




現在110世帯の方が暮らしている桜木仮設団地を訪ねると、小川川沿いに植えられた桜が満開の花を咲かせていた。
川を横断するように掲げられた鯉のぼりは、入居者を励まそうと全国から送られてきたもの。
川沿いは以前から桜の名所で、震災前はゴザをひろげて花見をする人が多かったという。
今春は仮設団地入居者への配慮から、静かに桜を愛でていると近くに暮らす女性が教えてくれた。
岩手県釜石市桜木町 桜木仮設団地 2013.4.19




あたたかい日差しが降り注ぐなか、まぶしそうに桜を見上げる親子の笑顔が印象的だった。
岩手県釜石市桜木町 桜木仮設団地 2013.4.19




福島県二本松市東新殿 合戦場のしだれ桜 2013.4.21




福島市在住のHさんは、今年2月に産まれた次女に「桜子」と名付けた。
名前には「桜のようなまわりに笑顔をあたえる女性になって欲しい」との願いが込められている。
福島県二本松市東新殿 合戦場のしだれ桜 2013.4.21




南相馬市役所に近い「夜の森公園」でふたりの男の子を遊ばせている若い父親と出会った。
子どもたちは桜吹雪に歓喜の声をあげ、風に舞う花弁を捕まえようと、両手を空高く伸ばしながら走りまわっていた。
小さな手のひらが大切に握った宝物。
福島県南相馬市原町区 夜の森公園 2013.4.16




かつて40軒以上の林檎農家がいた福島市渡利地区で、現在唯一の果樹農家となった「佐藤りんご園」。
同園では林檎のほかにサクランボと桃を生産。原発事故年は収益が半減し、売れずに残った果実は廃棄した。昨年は75%まで回復。
困難のなか「これまで付き合いのあった方々が『あなたの林檎はやはり美味しい』と注文してくれた」 ことが励みになったという。
渡利地区は放射能に汚染された負のイメージがつきまとう。
一時は「仲間の農家へ迷惑をかけるかもしれない」と農業を辞めることさえ考えたが、生産果実から放射性物質が検出されないことを確認してからは、ほかの生産地に負けない美味しい果実をつくることが、ここで生きていく道だと佐藤夫妻は思っている。
福島県福島市渡利 2013.4.12




岩手県大槌町末広町 2013.4.24